埼玉の歴史
埼玉の歴史は、古代の国選史書である『日本書紀』に鴻巣市笠原地区付近に居を構えていたとされる豪族、笠原直使主と同族の小杵による武蔵国造の勢力争いの記述があります。
尚、6世紀に突如現れたこの地の巨大古墳郡、および後述の鉄剣などから大和朝廷の直接支配まで、長らく武蔵国における中心だったと考えられます。
中世には武蔵武士が出現し、秩父氏の一族や、同族集団として形成された武蔵七党など中小規模の在地土豪が台頭しましたが、鎌倉幕府の成立後、幕府権力の確立課程で没落し、武蔵武士の地位は低下してしまいました。
また、その頃北武蔵には南北に鎌倉街道の上道や中道が通じて奥州方面と結ばれ、物資の流通路となったほか軍事的にも重視され、沿道には城館が分布し、脇道や水上交通も発達して多くの市や宿で賑わいました。
江戸時代になると五街道の整備が進められ、埼玉県内には中山道に9つの宿場(蕨宿、浦和宿、大宮宿、上尾宿、桶川宿、鴻巣宿、熊谷宿、深谷宿、本庄宿)、日光街道(奥州街道)に6つの宿場(草加宿、越ヶ谷宿、粕壁宿、杉戸宿、幸手宿、栗橋宿)がました。
それによって川越藩や岩槻藩・忍藩といった城下町が発展し、特に川越は江戸北方の防衛拠点として親藩・譜代の重臣が治め、「小江戸」と呼ばれ栄えました。
1871年廃藩置県を受けて、埼玉県(現在の中央地域・東部地域に相当)入間県(現在の西部地域・北部地域・秩父地域に相当)が誕生。
883年から85年にかけて、秩父地方で松方財政の不況の中借金に苦しむ負債農民が困民党を結成して秩父事件とよばれる騒擾がありました。